この記事は、2015年1月17日の歴史めぐりの様子を当時のブログにアップしたものをこちらのサイトに再アップするものです。

 この頃は、まだ城跡も積極的に訪れている時期でした。

 文章はほとんど当時のものと一緒で、古い内容が含まれていますのでご了承ください。

 補足が必要な場合は、それと分かるように追記します。

 ※朝霞市博物館には2020年1月26日に再訪したので、その時の様子をこのページの最後に追記します

 


埼玉県朝霞市と所沢市の小さな歴史めぐり【2015年1月17日(土)】

柊塚古墳 → 岡城跡 → 東圓寺および朝霞市博物館 → 滝の城


 

岡城の歴史の謎を解く鍵を握っているかもしれない東圓寺


 岡城跡を見終え、次は東圓寺と朝霞市博物館を探訪してみましょう。

 城山公園から5分も歩かずに、「東圓寺前」交差点があり、そこが参道入口となり、北西方向に参道が伸びています。

写真1 東圓寺参道入口


 100mほど歩くと、山門が見えました。

写真2 東圓寺山門

 
 緑の多い境内です。

写真3 緑の多い境内


 松光山東圓寺は真言宗智山派のお寺で、境内には来歴について書かれた説明板はありませんが、『新編武蔵風土記稿』「巻之百三十三 新座郡之五 野方領 岡村 東圓寺」によると、江戸末期の時点で、豊島郡石神井の三寶寺の末山でした。
 
 昔は薬王山と号しましたが、江戸末期の時点ではそれを院号とし、松光山薬王院と称しています。
 
 岡城のページでも述べましたが、同書が引く寺伝によれば、もともと現在地より東側の不動坂の西に、12間四面の薬師堂とその別当寺が5宇あったのが廃れてしまい、寛弘年間(985~1011)に法印永慶が中興し、薬師仏を本尊としてきましたが、またもや廃れてしまっていたところ、太田道灌が岡城を築城したときに、薬師仏を城内の持仏堂へ移してしまいました。
 
 ところが、道灌は夢のお告げによって、薬師仏をお寺に戻したと言います。
 
 『武蔵野歴史地理』によると、東圓寺が現在地に移転したのは慶長18年(1613)です。

写真4 鐘楼

 
 東圓寺は台地の崖部にあり、西側の眺望が開けています。

写真5 西側の眺望


 本堂の屋根は、北朝霞駅からこちらへ向かう時に、黒目川の対岸からも見えていました。

 

鐘の音マニア垂涎の機械装置 


 東圓寺の西の墓地側からは外に出られなかったので、もう一度山門に戻り、5分ほど歩いて朝霞市博物館へやってきました。

写真6 朝霞市博物館


 朝霞市博物館は入館無料で、もちろん考古遺物の展示もあります。
 
 館内は撮影NGなので写真はありませんが、本日の最初に訪れた柊塚古墳から出土した家形埴輪(トイレのデザインになっていた)が目玉でしょう。
 
 関東の古墳の出土物としてはかなり珍しいものだと思いますが、専門家の方、いかがでしょうか?
 
 あとは、私がとくに気に入ったのは、市内のいくつかのお寺の鐘の音が聴ける装置です。
 
 ヘッドホンではなく、普通にスピーカーに出てくるので、音が館内に響いてしまうのですが、お寺によって鐘の音が全然違うことに驚きました。
 
 今までは鐘の音なんてどれも同じだろうと漠然と思っていましたが、まったくの思い込みだったのですね。
 
 「ゆく年くる年」をもっと注意深く見るべきでした。
 
 しかしこうも個性があると、おそらく「鐘の音マニア」も国内にはいるのではないかと想像できます。
 
 全国の鐘を撞いて回るのが趣味の人とか・・・
 
 これ、絶対いるでしょう。
 
 それでは、鐘の音に魅了されたところで、本日最後の探訪地である所沢市の滝の城跡へ向かいましょう。

 


埼玉県朝霞市と所沢市の小さな歴史めぐり【2015年1月17日(土)】

柊塚古墳 → 岡城跡 → 東圓寺および朝霞市博物館 → 滝の城


 

古墳めぐりの帰りに朝霞市博物館再訪

 

 2020年1月26日に、歴史を歩こう協会で比企の古墳めぐりをしたのですが、その帰り道、朝霞市博物館を再訪しました。


 5年前に来たときは展示室内は写真撮影が禁止だったのですが、室内のどこを見渡しても写真禁止の掲示は見当たりません。

 ということで、今日は興味がある遺物の写真を撮りますよ。

 展示は旧石器時代から順番に並べるオーソドックスなやり方です。

 最初は、泉水3丁目の泉水山・富士谷(せんずいやま・ふじやつ)遺跡出土のナイフ形石器。

写真7 泉水山・富士谷遺跡出土のナイフ形石器


 ナイフ形石器はその名の通り、ナイフのような用途で使われたと考えられていますが、むしろ槍の穂先としての利用が一般的だったと考える研究者もいます。

 ナイフとして使う場合も、シベリアでは扱いやすいように動物の骨を柄として利用し、それにはめ込んで使った例が見つかっているので、日本でもそういう使い方をしたのかもしれません。

 真中のを見てみましょう。

写真8 泉水山・富士谷遺跡出土のナイフ形石器の拡大

 
 展示のキャプションには、約1万3000年前とありますが、この博物館はむかしながらの古い年代観で表示してあるようなのでで、実年代についてはあまり気にしなくていいでしょう。

 このナイフ形石器は関東・中部地方で流行した茂呂型と呼ばれるもので、黒曜石でできています。

 石核から石器一個分をかち割ると、鋭利な部分ができあがりますが、刃部として使うのはその鋭利な部分で、鋭利な部分も不要な箇所は刃を潰します。

 写真だと右側の大部分が刃部として残されており、右側の下から左側にかけては加工を施していおり、裏側は見えませんが、おそらく裏側も下の方は加工されて、柄に装着しやすい作りになっていると思います。

 ※石器に関してはまだまだ知識不足ですので、変なことを言っていたらご指摘ください。

 なお、石器に使った石材を列島各地で見てみると、東北地方では頁岩(けつがん)、関東・中部、それに九州では黒曜石、九州を除く西日本では安山岩(サヌカイトが有名)を主に使います。

 日本列島にもさまざまな種類の石がありますが、私たちの先祖は最終的に石器の材料として上記の石たちを選んだわけですね。

 とくにモース硬度5の黒曜石は見た目が綺麗ですね(ナイフの刃はモース硬度が5.5ですから切れ味の鋭さが想像できると思います)。

 つぎに、縄文時代を見てみましょう。

 縄文土器がいくつか並んでいますね。

写真9 縄文土器


 左上にある小型の深鉢を見てみましょう。

写真10 泉水山・富士谷遺跡出土の深鉢


 こちらも泉水山・富士谷遺跡からの出土で、縄文時代中期の土器です。

 上半分に大胆な装飾が施されており、器自体は小さいもののダイナミックなデザインの器に仕上がっています。

 三角形に造った把手も素敵です。

 朝霞市の市章かと思いました。

 もう一点縄文中期の土器。

写真11 泉水山・富士谷遺跡出土の深鉢

 またまた泉水山・富士谷遺跡からの出土で、縄文時代中期の土器です。

 泉水山・富士谷遺跡は朝霞市内では著名な遺跡で、現在までに80地点以上が発掘されており、上述のナイフ形石器のほか、縄文時代早期の炉跡(キャンプをした跡)も見つかっており、縄文集落跡に関しては、中期に最盛期を迎えました。

 つづいて、弥生時代です。

 根岸4丁目の新屋敷(あらやしき)遺跡出土の壺。

写真12 新屋敷遺跡出土の壺


 弥生時代には壺が流行ります。

 壺は大切な稲籾をいれておくとグッド。

 頸部が細ければ、ネズミちゃんは入ってこれませんね。

 そして古墳時代。

 これは面白いですね。

写真13 長い


 長!

 安定性悪いでしょうね。

 宮戸4丁目のハケタ・中道遺跡出土で、古墳時代後期ですから、柊塚古墳と同じころです。

 その柊塚古墳に関しては、ちょっと特別扱いになっていますよ。

写真14 古墳時代の解説パネル


 柊塚古墳には5年前に訪れていますが、現在の知識でもう一度実物を見てみたいなあと思っています。

写真15 柊塚古墳の説明


 最新の調査結果が掲示されていますが、全長72mで、墳丘が66mという不思議な書き分けをしています。

 その6mは周溝の幅ではないです。

 これが目玉の家型埴輪です。

写真16 柊塚古墳出土の家形埴輪


 古墳時代は同時代の文字史料がかなり少なく、かつ絵画史料についても同様なので、こういった形象埴輪が当時の人びとの生活を知るための一級資料となります。

 もちろん、一般人はこんな家には住んでおらず、竪穴住居ですよ。

 でも豪族居館と思われるこの家も、入口がほぼ地表面にあるので、この埴輪には下部もあったのかなとか考えてしまいます。

写真17 家形埴輪の解説


 「ほぼ完全な形」となっているので、下部はないのでしょう。

 柊塚古墳出土の埴輪としては、円筒埴輪も展示してあります。

写真18 柊塚古墳出土の円筒埴輪

 突帯は2条で、大きな丸い透孔を2段目にドーンと開けています。

 柊塚古墳の周溝から出土した埴輪で、ヨコハケの様子は写真だと良く見えないと思いますが、2次ヨコハケが伺えず、黒斑もないことから6世紀に焼かれた円筒埴輪だということが分かります。

 古墳の年代を考えるときは、古墳自体の形状や、こういった埴輪(発掘しなくても地表面で採集されたものでもOK)が判断材料となります。


 最後に墨書土器を一点。

写真19 南割・西久保遺跡出土の墨書土師器


 東弁財2丁目の南割・西久保遺跡は、朝霞市内で初めて奈良時代の住居跡がみつかった遺跡ですが、そうはいっても住居跡はたったの1軒だけです。

 ただ、「長」と思われる墨書のある須恵器坏形土器と土師器坏形土器が各1点ずつ出土しており貴重です。

 これは土師器の方ですね。

 住居跡の時代は8世紀第三四半期で、その時期と言うと『続日本紀』の天平宝字2年(758)8月24日の条では、帰化した新羅人の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移して新羅郡を建郡しています。

 また、その3年後の天平宝字5年正月9日の条では、美濃と武蔵の少年それぞれ30人に新羅語を習わせています。

 これは当時の政権の首班だった藤原仲麻呂による新羅討伐計画の一環です。

 そういった史実とリアルタイムな出土遺物ということで大変興味深いですね。

 ところで、朝霞市博物館に来た目的は、実はこれを購入するためでした。

写真20 『第34回企画展 朝から見る古墳の出現』図録

 朝霞市博物館では、「朝霞から見る古墳の出現」という非常に興味深い企画展をやっていたのですが、不覚にもそれを知ったのは企画展が終わった後でした。

 せめて図録だけでも入手できないかなあと思い、博物館に電話してみたところ、在庫があるということで比企の古墳めぐりの帰り道に寄ったのです。

 この図録は古墳時代の始まりについてのものなので、柊塚古墳についての説明はありませんが、柊塚古墳の所在する宮台遺跡では、前方後方形の周溝墓らしきものが見つかっており、この図録で解説しています。

 さて、以上で朝霞市博物館についての簡単な報告を追えますが、同博物館の展示はもちろんこれだけではありませんので、近くに行った時はぜひ訪れてみてくださいね。

 

参考資料

おすすめ記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です