初めての川越歴史めぐり② 古代入間郡の郡家があった霞ヶ関遺跡

 この記事は、2015年1月23日の歴史めぐりの様子を当時のブログにアップしたものをこちらのサイトに再アップするものです。

 この頃は、まだ城跡も積極的に訪れている時期でした。

 文章はほとんど当時のものと一緒で、古い内容が含まれていますのでご了承ください。

 補足が必要な場合は、それと分かるように追記します。

 


初めての川越歴史めぐり【2015年1月23日(金)】

砂久保陣場跡 → 入間郡家跡(霞ヶ関遺跡) → 河越氏館跡(上戸陣跡) → 常楽寺(大道寺政繁墓) → 河越城跡および東明寺 → 川越氷川神社 → 川越城跡および三芳野神社


 

偶然にも入間郡家を発見


 砂久保陣場跡を出て、つぎは河越館を目指します。
 
 河越「城」ではなく、河越「館」です。
 
 河越館は東武東上線の霞ヶ関駅が最寄りですので、まずは電車に乗るために川越駅まで歩きましょう。

 旧砂久保村を北西方向に向かい、県道6号線の今福交差点を右折してしばらく進むと、八雲神社がありました。

写真1 八雲神社


 「川越祭りばやし」の説明板はありますが、八雲神社自体の説明はありません。
 
 社殿は富士塚のような、あるいは円墳のような高まりの上にあります。

写真2 八雲神社社殿を見上げる


 登ってみましょう。
 
 社殿は覆いの中ですね。

写真3 八雲神社社殿


 境内神社として雷電社もありますが、このあたりは元々は原野ですので、やはり雷は怖かったんでしょうね。
 
 この辺りは江戸期は今福村でしたが、『新編武蔵風土記稿』の今福村の項には八雲神社は記載されていません。
 
 明治以降の創建でしょうか。
 
 八雲神社を出て久保川橋を渡ります。

写真4 久保川橋


 さらに北上すると、国道16号線と交わる新宿三丁目交差点が近づいてきました。

写真5 新宿三丁目交差点手前


 交差点を左折してずーっと進めば八王子に着きますよ。
 
 交差点を渡れば、川越駅はすぐそこです。

写真6 川越駅が見えてきた


 はい、川越駅に到着!

写真7 川越駅


 なんだかんだで、砂久保稲荷神社を出てからここまで40分も掛かってしまいました。
 
 川越駅からは東武東上線の各駅停車に乗って、霞ヶ関駅まで行きます。
 
 2駅目の霞ヶ関駅で降りると、いつものごとく電車を撮影。

写真8 東武東上線10000系


 おや、俺は大丈夫だぞ。

写真9 注意


 マナーの悪い人が多いんでしょうか。

 北口に降り立ちます。

写真10 霞ヶ関駅北口


 お、何かの案内板がある。
 
 「霞ヶ関北口周辺文化財案内」だと?
 
 えっ!
 
 駅の近くに入間郡家があった!?
 
 じゃあ、現地へ行ってみよう。
 
 あれ、何か聞き覚えのあるエンジン音が上空からしてくるぞ・・・
 
 あっ、YS-11!!

写真11 YS-11


 私が子供の頃に住んでいた家は、海上自衛隊下総航空基地から近く、来る日も来る日もYS-11やP-2J、それにC-1が頭の上を飛んでいました。
 
 その後、P-2JはP-3Cに代わり、C-130も飛ぶようになりましたが、それらの飛行機であればエンジン音ですぐに機種が分かるようになっていました。
 
 懐かしいYS-11のエンジン音・・・
 
 それにしてもまだ飛んでるんですね。

写真12 YS-11拡大


 美しいデザインです。
 
 さて、それはそうと、この辺が入間郡家(ぐうけ)跡とされている霞ヶ関遺跡のはずですが・・・
 
 ちなみに郡家というのは、古代の郡の役所のことで、郡というのは今でも名前だけ使われていますが、もともとは「ぐん」と読まず、「こおり」と読んで、当初は「評」という字があてられていました。
 
 古代飛鳥時代の最大の事件と言えば、645年の「乙巳の変」(いわゆる大化改新)ですが、蘇我政権を倒した孝徳政権(主導者は中大兄皇子<のちの天智天皇>)は、中国の律令という法律を模範にして国づくりを進め、地方統治の制度も改革していきます。
 
 やがて、全国を五畿七道という大きなブロックに分けて、「国」という今で言う都道府県のような行政区画を作り始めます。
 
 ただその政策は一気呵成に推し進められていったわけではないようで、徐々に制度が整備されていき、最終的に国の境域が確立したのは天武天皇12~14年(683~685)とされています。
 
 その過程で、国の下に所属する行政区画として、649年には「評」が作られ(『古代豪族と武士の誕生』)、全国に評の役所である「評家」が作られていったのです。
 
 大化改新以前は、全国にはその地域の有力者が国造(くにのみやつこ)に任じられ、半独立的な大きな自治権を持っており、改新以後、彼らは評の長官および幹部職員という、いわゆる地方公務員として国家に組み込まれることになったのですが、それに対して彼らが抵抗するのは当然ですね。
 
 ですから、新政権の地方自治制度改革も思うようには進まなかったのでしょう。
 
 さて、線路の反対側には教習所があります。

写真13 教習所


 おや、何か工事をやっていますね。

写真14 工事中


 的場公園(仮称)の建設工事です。

写真15 的場浩司ではない


 ※後日、この公園は「みどりの広場公園」としてオープンしました。

 この辺一帯が遺跡のはずですが、詳細は分かりません。
 
 なお、駅前にあった「霞ヶ関北口周辺文化財案内」によると、堀に沿って大型建物の柱跡が整然と並んでおり、「入厨」と墨書された土器も見つかっています。
 
 「入厨」というのは入間郡家の厨(台所)という意味ですね。
 
 まさかこんなところで入間郡家跡に遭遇するなんて思っていませんでしたが、やはり好きなものや興味のあるものには自動的に引き寄せられるんですね。
 
 それでは改めて河越館跡へ向かいましょう。

 この探訪の後の4月12日に、川越市立博物館開館25周年記念シンポジウム「古代入間郡の役所と道」を聴講し、そこで知見を新たにしました。
 
 同博物館の第41回企画展として「古代入間郡の役所と道」が開催され、その図録を元に霞ヶ関遺跡について補足します。
 
 霞ヶ関遺跡は、近隣の天王遺跡および山王久保遺跡とともに、霞ヶ関遺跡群を構成しており、それらは入間郡家とそれに関連する遺跡であることがほぼ確定しています。
 
 工事中だった公園のすぐ東側では、7~9次の発掘が行われ、そこには元々7世紀末から8世紀初頭に竪穴住居がありました。
 
 つまりムラがあったわけです。
 
 そこに郡庁の一部と推定される大型の掘立柱建物が建てられ、2回以上の建て替えを経て、平安時代に廃絶されたと考えられています。
 
 私が特に興味を惹かれるのは入間郡家周辺の景観です。
 
 入間郡家の東側、500mくらいの至近の距離には入間川が南北を流れており、これは確実に舟運に利用されていますね。
 
 一方、西側約1.5kmには、東山道武蔵路がやはり南北に通っており、南側約700mの地点には東の足立郡と西の高麗郡を結ぶ伝路があり、交通網が張り巡らされています。
 
 一般的に、郡家の戌亥(北西)方向は神聖な場所とされ、式内社クラスの大きな神社があるそうで、宝亀3年(772)の太政官符に登場する入間郡家西北隅の「出雲伊波比神」は、現在の上戸日枝神社と推定されています。
 
 上戸日枝神社は、秩父平氏の河越氏が所領を後白河上皇に寄進した際に、京都の新日吉を勧請したのが始まりとされています。
 
 そして面白いことに、上戸日枝神社の南側に伸びる参道の先には、川越市内最大の前方後円墳である6世紀末築造の牛塚古墳(墳丘長47m)があり、「牛」というのは、貴人を示す「大人(うし)」のことであり、宝亀2年の時点で存在した出雲伊波比神は、6世紀末のこの地の支配者に対して何らかの意図を持って造られたと考えられるわけです。

 


初めての川越歴史めぐり【2015年1月23日(金)】

砂久保陣場跡 → 入間郡家跡(霞ヶ関遺跡) → 河越氏館跡(上戸陣跡) → 常楽寺(大道寺政繁墓) → 河越城跡および東明寺 → 川越氷川神社 → 川越城跡および三芳野神社


 

参考資料

投稿者: 案内人

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