初めての川越歴史めぐり③ 秩父平氏の中心氏族・河越氏の本拠・河越館跡と長享の乱での山内上杉氏の陣城・上戸陣跡

 この記事は、2015年1月23日の歴史めぐりの様子を当時のブログにアップしたものをこちらのサイトに再アップするものです。

 この頃は、まだ城跡も積極的に訪れている時期でした。

 文章はほとんど当時のものと一緒で、古い内容が含まれていますのでご了承ください。

 補足が必要な場合は、それと分かるように追記します。

 


初めての川越歴史めぐり【2015年1月23日(金)】

砂久保陣場跡 → 入間郡家跡(霞ヶ関遺跡) → 河越氏館跡(上戸陣跡) → 常楽寺(大道寺政繁墓) → 河越城跡および東明寺 → 川越氷川神社 → 川越城跡および三芳野神社


 

思っていたよりも立派な史跡公園


 予期せぬ入間郡家跡との出会いを喜んだ後は、本来の目的地である河越館を目指します。
 
 くどいですが、河越「城」ではなく、河越「館」ですよ。
 
 河越館は国史跡に指定されているので現況がどうなっているか楽しみです。

 地図を見ながらプラプラ歩いていると、遠くに社叢のような木々が見えました。

写真1 社叢か


 何神社かな?
 
 ところが、着いてみると「天王公園」という名前の公園です。

写真2 天王公園


 公園内を歩いてみても、社はおろか祠もなく、社殿があったような形跡もありません。
 
 でも、どう見ても神社っぽいたたずまいなんですがね。
 
 「天王」というのも、例えば牛頭天王とかと関係がないのでしょうか?
 
 とりあえず、河越館跡へ行きましょう。

 帰宅後、『新編武蔵風土記稿』「巻之百八十一 高麗郡之六 上ハ戸村」を見てみると、「天王社」という項目が立っていました。
 
 ただし、項目名だけで本文はなく、詳細は不明ですが、天王公園には少なくとも江戸末期までは天王社があったのではないでしょうか。
 
 もしご存じの方がおられましたら、ぜひご教示ください。

 
 お、ここだな。

写真3 河越館跡


 思っていたよりも広い!

写真4 河越館跡


 おーっ!土塁発見!

写真5 西側土塁


 史跡公園の西側の細い道路の向かい側には南北に長大な土塁が残っています。
 
 現在は写真の通りの高さになっていますが、それでもこんな立派に残ってるいなんて素晴らしいですね。
 
 もちろん、土塁の上を歩きます。
 
 北西側の角まで来ると、東側に向かって延びていたであろう土塁の形跡も少し残っています。

写真6 北西側角の土塁


 河越館は、平安時代末期頃にこの地に進出してきた秩父平氏の河越氏の館跡なのですが、応安元年(1368)に鎌倉府に反旗を翻して敗れ滅亡、その後、戦国時代になって、関東管領山内上杉氏と扇谷上杉氏が対立した長享の乱の際に、この館跡に山内上杉氏が陣を構えました。
 
 それを上戸陣と呼ぶのですが、現地の説明板によると、上記の土塁はその時に構築されたものだと考えられているそうです。
 
 お、国史跡に必ずある立派な石柱。

写真7 国史跡の標柱


 今度は空堀、というか溝のようなものが。

写真8 13世紀の河越館時代の堀跡


 13世紀の河越館時代の堀跡で、鎌倉時代の武士の館を囲んでいた堀は、その後の戦国時代の城の空堀と比べたら随分貧弱だったんですね。
 
 ところで、史跡公園の北側のトイレの近くには詳細な説明板が多数設置されていて、かなりの情報を得ることができます。

写真9 14世紀半ば頃の河越館イメージ図


 この絵は14世紀半ば頃の河越館をイメージしたもので、ちょうど先ほど言いました河越氏の滅亡直前頃の状態ですね。
 
 9番の場所が館の中心地と想定され、遺構は見つかっていませんが母屋があったと考えられており、4番の霊廟らしきものがあった区画と8番の場所も館内の区画で、7番は墓域でした。
 
 そして10番は河越氏の持仏堂から発展した常楽寺です(のちほど訪れます)。
 
 先ほど訪れた入間郡家のページにも書きましたが、宝亀3年(772)の時点で入間郡家の北西方向には、郡家を守護する「出雲伊波比神」があり、現在の上戸日枝神社がそれだと推定されています。
 
 上の絵の12番がそれなのですが、神社の鳥居の場所から絵の左(南方向)へ向かうのは中世の鎌倉街道で、古代には伝路という今で言う県道のような官道が走っており、古代からこの周辺は重要地域だったわけです。
 
 上戸日枝神社は、この地に進出した秩父平氏の河越氏が所領を後白河上皇に寄進した際に、京都の新日吉を勧請したのが始まりとされています。
 
 発掘調査個所の平面図も載っています。

写真10 発掘調査個所の平面図


 こちらは現在の施設案内図です。

写真11 現在の施設案内図


 説明板の場所から全体を見渡します。

写真12 北からの眺め


 敷地の一番東側には茶畑が少しだけ再現されています。

写真13 茶畑


 現在でも「狭山茶」はお茶のブランドとして有名ですが、説明板によると狭山茶のルーツとなったのが河越茶で、14世紀の半ばには全国の銘茶五場の一つとして河越が挙げられているそうです。
 
 河越茶については、『川越市史 第二巻 中世編』の342ページから「河越荘と河越茶」という節名で解説がありますので興味のある方はご覧ください。
 
 茶畑から戻り、中心部に近づきます。
 
 河越氏時代の堀が北・西・南にめぐっています。

写真14 遺跡公園中心部


 お、上戸小学校との境界には掘立柱建物があったようですね。

写真15 掘立柱建物跡


 柱跡が地面に表示されています。
 
 遺構がちょうど小学校の敷地にかかってしまっているのが惜しいですが、これを見ても分かる通り、小学校の敷地内を掘ればいろいろ出てくることが期待できますね。
 
 さあ、再度中心部を見てみます。

写真16 遺跡公園中心部を東から見る


 右側の石積みの高まりは、河越氏の霊廟であったと考えられており、また左側には井戸が見えます。

写真17 河越氏霊廟跡か


 私はなぜか、こういった宗教施設のようなものに惹かれてしまうんですよね。
 
 さて、これで全体を見ることができましたが、河越館の変遷を説明板を元に簡単にまとめてみます。
 
 河越館の歴史は以下の通り4期に分けることができます。

年代事柄
第Ⅰ期12世紀後半~1368年秩父平氏がこの地に進出して河越氏を名乗ってから1368年の「平一揆」で滅亡するまでの期間です。火を受けた痕跡の残る軒丸瓦や磁器が出土しており、それらは河越氏滅亡と関連付けができそうです。
第Ⅱ期14世紀後半~15世紀後半元々は河越氏の持仏堂であった常楽寺が河越氏滅亡のあとに寺域を館跡にまで拡げます。
第Ⅲ期15世紀末~1505年山内上杉氏と扇谷上杉氏との争いである「長享の乱」において、山内上杉氏がいわゆる「上戸陣」を構築。「山内系かわらけ」が多く出土しています。
第Ⅳ期16世紀中頃~1590年遺構・遺物、それに文献も乏しいですが、後北条氏が進出してからは大道寺氏が陣所として整備した可能性が考えられます。

 最後の大道寺氏の陣所説は、常楽寺に大道寺政繁の墓があることからの推測のようですが、確かに何か関連があるかもしれません。
 
 それでは最後に、南側から史跡公園を眺めて河越氏とお別れしましょう。

写真18 南側からの眺め


 次はその大道寺政繁の墓があるという古刹・常楽寺を訪れてみましょう。

 


初めての川越歴史めぐり【2015年1月23日(金)】

砂久保陣場跡 → 入間郡家跡(霞ヶ関遺跡) → 河越氏館跡(上戸陣跡) → 常楽寺(大道寺政繁墓) → 河越城跡および東明寺 → 川越氷川神社 → 川越城跡および三芳野神社


 

参考資料

投稿者: 案内人

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です