初めての川越歴史めぐり④ 悲劇の武将・大道寺政繁が眠る常楽寺(大道寺政繁墓)

 この記事は、2015年1月23日の歴史めぐりの様子を当時のブログにアップしたものをこちらのサイトに再アップするものです。

 この頃は、まだ城跡も積極的に訪れている時期でした。

 文章はほとんど当時のものと一緒で、古い内容が含まれていますのでご了承ください。

 補足が必要な場合は、それと分かるように追記します。

 


初めての川越歴史めぐり【2015年1月23日(金)】

砂久保陣場跡 → 入間郡家跡(霞ヶ関遺跡) → 河越氏館跡(上戸陣跡) → 常楽寺(大道寺政繁墓) → 河越城跡および東明寺 → 川越氷川神社 → 川越城跡および三芳野神社


 

常楽寺は果たして砦だったのか?


 河越館跡から本堂がチラチラ見えていた常楽寺へ行ってみましょう。
 
 常楽寺には、後北条氏の重臣で悲劇の武将と言われる大道寺政繁の墓があるそうですよ。

 一旦道路に出て、東に向かうと常楽寺の総門がありました。

写真1 常楽寺の総門


 境内に入ると、前方には楼門が見えます。

写真2 境内参道

 
 おや、何かがこちらを見ている!

写真3 犬さん


 犬さんだ!
 
 私は猫派ですが、猫は何か尊大に構えている感じがするので、私は「猫ちん」と呼びます。
 
 「ちん」は、皇帝の一人称である「朕」を想起させられるからです。
 
 ですが、犬の場合、特にこういう大型犬の場合は、何かすべてを悟っているような感じがするので、敬意をはらって「さん」付けで呼びます。
 
 身体を半分葉っぱの中に埋もれさせてこちらをじーっと見ています。
 
 刺激すると可哀想なので、先に進みましょう。

 ※後日、犬を飼ったことにより犬も好きになりました。
 
 楼門です。

写真4 楼門


 門の両サイドには阿吽の仁王像がいますが、だいたいどこのお寺も暗くてよく見えないんですよね。
 
 もしかしたら、はっきり見えないところが逆に良いのかもしれません。
 
 ところで、お寺を出るときに気付いたのですが、この楼門の2階には鐘が吊るされています。
 
 時宗の寺にはこういうのが多いのかな?と思いましたが、とくに時宗独特というわけではなく、元々鐘は鐘楼に吊るすものを室町時代になると楼門に吊るす形態が現れたようです。

写真5 楼門から向こうを覗く


 楼門をくぐり、振り返ります。

写真6 楼門を内側から見る


 そして本堂。

写真7 本堂


 時宗のお寺には必ず一遍上人の像がありますね。
 
 屋根のところに見える寺紋は、「折敷に三」ですが、これは常楽寺の本山である神奈川県藤沢市の遊行寺と一緒ですね。
 
 まあ末寺だから当たり前かもしれませんが、「折敷に三」は伊予国(愛媛県)で古代から続く越智氏の紋で、時宗の開祖である一遍上人は、越智氏の一族河野氏の分家別府氏の出身です。
 
 お、「河越山」の額が良いですねえ!

写真8 河越山


 河越山という山号を見て変だな?と思われた方もいるかも知れません。
 
 というのも、現在の川越(字は違います)の町は、常楽寺から入間川を挟んだ対岸で、少し離れたところにあります。
 
 でも実は元々の河越の中心地はこの辺りだったというのが定説で、だからこそ秩父平氏の一族がこの地に居館を築き、地名を取って河越氏を称したのですね。
 
 それでは、境内の墓地にあるという大道寺政繁の墓を探してみましょう。
 
 おや、ひときわ立派な宝篋印塔があるぞ。
 
 あれに違いにない。
 
 やはりそうだ!

写真8 大道寺政繁墓


 大道寺政繁の戒名は、松雲院殿江月常清大居士です。
 
 政繁は、常楽寺の中興開基になっています。
 
 ところで、なぜ政繁は常楽寺を復興させたのでしょうか?
 
 普通の考えでは、この周辺を政繁が統治したことにより、その宗教的拠点として中興したと考えるのが素直ですが、もう少し考えてみましょう。
 
 河越城は、長禄元年(1457)に、扇谷上杉氏の重臣であった太田道真・道灌父子によって取り立てられ、それ以来、扇谷上杉氏の本拠地だったのですが、天文6年(1537)に名将扇谷上杉朝興の病死後、その隙を衝いて一気に攻勢に出た北条氏綱によって落とされ、氏綱は領内の北武蔵における最重要拠点として、叔父宗哲と義弟綱成を城代として入れました。
 
 詳しくは河越城のページで述べていますが、天文14年(1545)には、扇谷上杉朝定が山内上杉憲政や古河公方足利晴氏を巻き込んで河越城の奪回をするべく攻勢に出て、翌年には、いわゆる「河越夜戦」が行われます。
 
 ただ、河越夜戦と呼ばれる戦いは、実際は夜戦ではなかった可能性もあるので、現在では単純に「河越合戦」と呼ぶ方が無難です。
 
 『日本城郭大系』には、河越合戦のあとに政繁を城代に起用したとありますが、天文2年(1533)生まれの政繁は、天文15年にはまだ14歳であり、実際には政繁の祖父と考えられる盛昌が城代になり、ついで盛昌の嫡男周勝が次ぎ、周勝は永禄4年(1561)の上杉謙信の侵攻を防ぎ、その次に城代となったのが政繁です。
 
 ただし、政繁を含め大道寺氏の系譜関係は不明な点が多く、関東の覇者北条氏の最有力家臣であっても、やはり滅亡した氏族であるので記録に乏しいのでしょう。
 
 さて、常楽寺が政繁によって再興されたとすると、政繁が河越城代となった以後のことであるのは明白です。
 
 政繁が城代となった頃は、毎年上杉謙信が関東に働きに来ていた時期なので、その脅威に対抗すために政繁は河越城を増築し、伝承でも入間川の対岸であるこの地に陣所を築いたと伝わっているので、対謙信の防御拠点を築いた可能性が考えられます。
 
 そうなると、当時の寺院はいざというときには防衛拠点となり、立派な建物は大将の陣所にもなり、そしてなによりも神仏に守られているという精神的な安心感も伴っているので、そのために常楽寺を再興させたと考えると自然です。
 
 ただ、この地が当時の政治情勢の中で、戦略的な意味を持つ場所だったのか検証する必要がありますが、河越館および上戸陣のページでも述べた通り、この地の西側には鎌倉街道が走っていることも考慮に入れて、さらに考察する必要があります。
 
 実は、政繁の墓は群馬県安中市(旧碓氷郡松井田町)の補陀寺にもあり、そちらは政繁の居城であった松井田城の一郭で、政繁の居館があったと伝わっています。
 
 ちなみに、一人の人物の墓が複数の場所にあるというのは、歴史上の人物であれば特段珍しいことではなく、故人ゆかりの地が複数あれば、それぞれの場所に墓が営まれることがあります。
 
 大道寺氏の家紋、「揚羽蝶」。

写真10 揚羽蝶紋


 大道寺氏は、後北条氏初代伊勢宗瑞からの家臣で、『北条早雲と家臣団』によれば、山城国の生まれと推定される大道寺蔵人佐盛昌は、宗瑞の従兄弟の子だと考えられています。
 
 それ以来代々北条氏に幹部として仕え、最後の政繁は豊臣政権の関東攻略の際に松井田城で戦うものの降伏し、その後は豊臣勢の道案内を務め功績があったのにもかかわらず、結局は「不忠者」として、当主氏直の父氏政、同叔父氏照、松田憲秀とともに切腹させられました。
 
 つまり利用されるだけ利用されて殺されたわけで、その辺りが悲劇の将とされるゆえんですが、降伏後に道案内をしていることから北条ファンからは好かれていないようです。
 
 しかし政繁の気持ちは、政繁にしか分かりません。
 
 本人が単純に自分一人が助かれば良いと思って降伏し、豊臣に協力したとは考えられず、やはりもっと全体的な利益に通じることを豊臣勢から匂わされたことで協力し、しかし結局は政治的な理由で豊臣に抹殺されたと考えるのも、決して穿った見方と一蹴することはできないと思います。
 
 おや、この五輪塔は誰のだ?

写真11 他阿上人智徳大和尚の五輪塔


 「遊行三祖 他阿上人智徳大和尚」と刻してありますね。
 
 常楽寺を開山した人物です。
 
 遊行というのは時宗のことで、鎌倉時代に一遍上人が創始し、一遍の没後はその弟子の他阿真教が組織的な体制を整えました。
 
 実は私にとって他阿真教は、平将門の調査の関連から非常に気になる存在なのですが、その他阿真教の弟子が他阿智徳で、智徳は真教の没後教団を受け継ぎました。
 
 元々の阿号は量阿だったのですが、「他阿」を継承し、その後時宗のトップは代々、他阿を称することになります。
 
 境内には観音堂もあります。

写真12 観音堂

 
 あ、もう12時になる。
 
 黒田先生の講演は14時からなので、ちょっと先を急ぎましょう。

 


初めての川越歴史めぐり【2015年1月23日(金)】

砂久保陣場跡 → 入間郡家跡(霞ヶ関遺跡) → 河越氏館跡(上戸陣跡) → 常楽寺(大道寺政繁墓) → 河越城跡および東明寺 → 川越氷川神社 → 川越城跡および三芳野神社


 

参考資料

投稿者: 案内人

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