この記事は、2016年10月10日の歴史めぐりのレポートですが、当時は探訪記事を書いていなかったため、当時のことを思い出して記します。

 


川越古代史探訪【2016年10月10日(月)】

山王塚古墳 → 尾崎神社 → 東山道武蔵路跡(JR的場駅近辺) → 上戸日枝神社 → 浅間宮の謎の塚 → 牛塚古墳 → 川越市立博物館 → 川越城跡 → 喜多院多宝塔古墳


 

元々はどんな形状をしていたのか?


 喜多院の近くにも古墳があるということで、あまり良く分からないまま、日枝神社へやってきました。

 古墳というより土塁のように見えますが、確かに昨年来たときにこれを遠くから見て土塁のように見えた覚えがあります。

写真1 これが古墳?


 これが本当に古墳なのでしょうか?

 とりあえず、行ってみましょう。

 日枝神社の鳥居。

写真2 鳥居


 小さな境内に新しそうな拝殿が建っています。

写真3 拝殿


 古墳について書かれているのかなと思いましたが、本殿について記された説明板でした。

写真4 本殿の説明板


 本殿は国の重要文化財だそうですよ。

 土塁状の土盛りの方へ行ってみます。

写真5 どこがどう古墳なのか?


 あ、手書きの説明板があった!

写真6 説明板


 と思ったら、古墳については具体的に書いていませんね。

 国指定重要文化財の本殿を高みから覗き見ます。

写真7 本殿


 日枝神社を造った際に、墳丘をガッツリ削ってしまったのでしょうが、どこをどう削ったのか分かりません。

写真8 拝殿


 うーん、良く分からない・・・

写真9 やっぱり分からない


 手元に資料もないし、気持ちが悪いですがもう時間なので今日の探訪はこれにて終了です。

 お家へ帰りましょう。

 

後日判明したこと


 この探訪の後、塩野博先生の『埼玉の古墳』全5巻を手に入れました。

 該書の「北足立・入間」編にてようやくこの古墳の元々の形状が分かりました。

 いや、分かったとは言い切れないかも・・・

 ともかく、現地はこうなっていたんですね。

『埼玉の古墳 北足立・入間』(塩野博/著)より加筆転載

 土塁状の土盛りは上の図の日枝神社社殿の左側です。

 この古墳の形状については、昔から前方後円墳説があるそうですが、その説を採るとしたら、元々は東西軸で、そのど真ん中を南北方向の道路によって分断されてしまったと見ることができます。

 ただし、該書に掲載された円筒埴輪の模写を見ると、2条の突帯であるので、前方後円墳としたら小型で、むしろ円墳だったかなと思ったりします。

 その円筒埴輪は1段目が長いので、6世紀後半のものでしょうが、該書では、主体部は竪穴系ではないかとしています。

 6世紀後半だったら横穴式じゃないかなあ?

 形状は本当に前方後円形かなあ?

 あらま、謎が一層深まっちゃいましたね。

 ところで、喜多院多宝塔古墳は、日枝神社古墳と呼ばれることがあり、仙波古墳群のなかの一基です。

 川越の市街地のコアゾーンは古墳群だったわけですが、そういえば、中世の頃も現在の川越の市街地は墓域が多かったようで、もともと秩父平氏の流れの河越氏が居館を構えたのは入間川の向こう側の「河越」でした。

 同じ秩父平氏が拠点とした江戸も墓域が多かったな・・・

 完全に市街地化された現在では、仙波古墳群の実態を明らかにするのは難しいでしょう。


川越古代史探訪【2016年10月10日(月)】

山王塚古墳 → 尾崎神社 → 東山道武蔵路跡(JR的場駅近辺) → 上戸日枝神社 → 浅間宮の謎の塚 → 牛塚古墳 → 川越市立博物館 → 川越城跡 → 喜多院多宝塔古墳


 

参考資料

  • 『埼玉の古墳 北足立・入間』 塩野博/著 2004年

おすすめ記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です