方墳としては埼玉県内最大規模の穴八幡古墳

基本情報

所在地

埼玉県比企郡小川町増尾字岩穴63-1ほか

探訪レポート


中世城郭の教科書・杉山城跡を見に行く【2014年12月28日(日)】

杉山城跡 → 嵐山史跡の博物館 → 山王古墳群 → 鎌倉街道 → 菅谷館跡 → 穴八幡古墳 → 中城跡


 この探訪記事は、2014年12月284日の歴史めぐりのレポートで、当時のブログに掲載したものをこちらに復刻します。

 文章はほとんど当時のままですので、情報が古い場合がありますがご了承ください。

 その後の追記や補足は、それと分かるように記します。 

予想だにしなかった県内最大級の方墳との邂逅

 菅谷館跡を探訪中に出会った方から小川町の中城跡を勧められた私は、以前一度訪れたことがある大蔵館跡を再訪する予定を変更して、急きょ中城跡へ急行することにしました。

 武蔵嵐山駅まで戻ってきて電光掲示板を見ると、運よくすぐに電車があります。

 お、ラッキー。
 
 こっちの方はあまり本数がなくて、しかも日暮れまでそんなに時間がないので、すぐに電車があって良かったです。
 
 少し待って、入線してきた東上線に乗り込んで、隣駅の小川町駅まで移動しますが、駅間が結構あって、10分近く乗って小川町駅に到着しました。
 
 例のごとく、乗ってきた電車を激写。

写真1 東武東上線


 改札を出ます。

写真2 小川町駅


 小川町って結構賑やかな感じですね。
 
 駅前から延びるメインストリートの両脇には商店が立ち並んでいます。
 
 おっ、本屋さん発見!

写真3 いづみブック

 
 中に入ると地元の本のコーナーがあります。
 
 私は地方に行って本屋さんを見つけると必ず立ち寄り、地元でしか手に入らない本を買います。
 
 でも最近は、Webでも流通していることもあるので、それほど貴重な本には巡り会えなくなりました。
 
 ただ、Webで買えることは分かっていても、やはり地域の本屋さんの売り上げに貢献したいので、梅沢太久夫氏の『改訂版 武蔵松山城主 上田氏』と『松山城合戦』、そして『戦国の境目』を購入します。
 
 うわ、リュックが一段と重くなった・・・
 
 では、改めて中城跡を目指しましょう。
 
 嵐山史跡の博物館で購入した『改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」』に記載されている地図を頼りに歩いて行くと、城跡っぽい山が見えてきました。

写真4 城跡っぽい山


 あれかな?

 山を目指していくと、標柱を発見しました。

写真5 標柱


 え?

 穴八幡古墳って書いてありますよ。

 標柱が立つくらいだから、メジャーな古墳なのか?
 
 残念ながら、古墳に関しては城跡ほど私の脳内にデータベースが構築されておらず、聞いたことが無い古墳です。

 しかし、手元の『改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」』を見てみると、確かに地図上にマークしてありますね。

 でもその地図は大ざっぱなので詳細な位置は分かりません。 
 
 いや、でもせっかくなので行ってみましょう。
 
 坂を登り、遠くの山並みを眺めながら進みます。

写真6 遠くの山並み


 本屋さんを出てから15分ほど歩くと、鳥居があって、長い参道がまっすぐと向こうの方まで続いています。

 八幡神社とあります。

写真7 八幡神社参道


 ほう、八幡神社か。

 よくあるケースで、八幡神社の境内にあるので穴八幡古墳かな?
 
 とりあえず行ってみよう。

 八幡神社の社地に到着。

写真8 八幡神社

 
 説明板によると、元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡した時、将軍・守邦親王は、慈光寺山麓の古寺に亡命し、土豪・猿尾(ましお)氏に迎えられ、現在地である梅香岡(うめがおか)に仮宮し、八幡神社を勧請したとの伝承があるそうです。
 
 拝殿。

写真9 拝殿

 
 本殿は露出していません。

写真10 本殿


 いや、でも当初の予想に反して境内には古墳は見当たりません。
 
 付近を捜索してみましょう。
 
 おお!!
 
 あった!!

写真11 穴八幡古墳のシルエット


 遠くから墳丘の高まりを発見した時のこの喜び。

 史跡公園になっているんですね。

写真12 説明板


 古墳の前にやってきました。
 
 こちらにも説明板が設置してあります。

写真13 説明板


 穴八幡古墳は32m四方を測り、方墳としては県内では最大規模の古墳だそうです。
 
 横穴式石室を持つ7世紀後半の古墳で、墳丘とともに二重の周溝の一部が残っているそうです。

 ほー、貴重な古墳にめぐりあってしまった・・・

 説明板はほかにもありますよ。

写真14 説明板
写真15 穴八幡古墳の謎


 ではまずは周溝を見よう。

写真16 周溝


 おおっ!
 
 二重部分も残っていて良いねえ。

写真17 周溝の二重部分


 前方後円墳の場合は、前方部と後円部の間のくびれている部分にグッとくるのですが、これは方墳なので、エッヂの効いた角部分を堪能したい。

写真18 エッヂの効いた角部分


 では、墳丘に登りましょう。

写真19 墳頂からの眺め


 人間の墓の上に登って喜んでいるのもどうかと思いますが、良い眺めですね~。

 ※石室内も見ることができるのですが、写真を撮っても全然中が写っていませんでした。

写真20 石室開口部


 石室は南側に開口しており、玄室・前室・羨道からなる全長8.2mの大きなもので、緑泥片岩をパネル状に使っているそうです。

 もう一度、説明板を見てみましょう。

写真21 石室実測図


 『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』によると、緑泥片岩をパネル状に使う横穴式石室は、比企地域および隣の男衾地域にはここ以外に一つもなく、行田市の小見真観寺古墳が当てはまります。 
 
 つまりこの石室は在地性に乏しく、畿内の終末期古墳との共通性が強く窺えるとのことです。
 
 この地域の古代史に関しては私は全然知識がないので、今はまだ何も語れませんが、方墳は基本的には古墳時代初期の頃に多い形態です。
 
 それが古墳時代の再末期になってまた登場しているんですね。
 
 これにはいったいどのような意味があるのでしょうか。
 
 32m四方と言うと、「なーんだ、ちっこい古墳じゃん」と思う方もいるかもしれませんが、古墳時代後期の関東地方では最大規模の大きさです。
 
 この大きさだと、かなりの有力者が眠っていたことが考えられます。
 
 いやー、戦国時代からいきなり古代へタイムスリップしましたが、古代もロマンがあって楽しいですよ。

 645年の大化改新以降、新政府はそれまで独立性の高い国造(くにのみやつこ)に任せていた地方を、評(こおり)という行政区画に再編し、地方への影響力を強めて行きました。
 
 『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』でも述べられている通り、穴八幡古墳の被葬者は、当時の男衾評の評造(こおりのみやつこ=評の長官)かもしれません。

 
 さて、そんなわけで、時刻はもう15時半です。
 
 はやく中城跡に行かないと日が暮れてしまうよ!

  


中世城郭の教科書・杉山城跡を見に行く【2014年12月28日(日)】

杉山城跡 → 嵐山史跡の博物館 → 山王古墳群 → 鎌倉街道 → 菅谷館跡 → 穴八幡古墳 → 中城跡


 

参考資料

  • 現地説明板
  • 『新編武蔵風土記稿』「巻之百九十三 比企郡之八 増尾村」 昌平坂学問所/編 1830年
    ↑クリックすると国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページへリンクします
  • 『埼玉の古墳 比企・秩父』 塩野博/著 2004年
  • 『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』 広瀬和雄・池上悟/編 2007年
  • 『改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」』 嵐山史跡の博物館/編 2014年

投稿者: 案内人

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です