春林横穴墓群

1.基本情報

所在地

神奈川県相模原市緑区久保沢(川尻小学校の西側)
※地図は川尻小学校の位置

諸元

横穴墓群

基数:100基以上
築造時期:7世紀中葉~8世紀

出土遺物

・人骨
・2号横穴前庭部にて須恵器の長頸瓶、土師器の坏、鉄製刀子

2.探訪レポート


津久井城跡から高尾へ歩く 【2016年1月2日(土)】

津久井城跡 → 大正寺久保沢観音堂 → 春林横穴墓群 → 川尻八幡宮および八幡神社古墳 → 小松城跡 → 下馬梅 → 大戸学校跡 → 大戸観音堂 → 謎の城郭遺構 → 小仏層


草木に覆われた崖に今も眠る横穴

 津久井城跡を出て、北上します。

 ヤマセミさんによると、この近くにはなんと横穴墓があるということで、川尻小学校の裏道を進み、墓地を横目に山へ向かいます。

写真1 春林横穴墓群へ向かう


 ほどなく、説明板が出現!

写真2 説明板


 旧城山町はきちんと説明板を設置していて好感が持てますね。

 春林横穴墓群という名称がなんか中国チックですが、春林というのはこの辺の地名です。

 横穴墓の発音に関しては、説明板のふり仮名のように「おうけつぼ」と言う人と「よこあなぼ」と言う人に分かれ、私は後者です。

 まあ、どちらでもいいと思いますよ。

 全体では100基ほどあると予想されているようですが、分かっている範囲で分布図も書いてあります。

写真3 横穴分布図

 二重丸とか三角とかの意味は分かりません。

 では、崖の場所まで行ってみましょう。

 おっと、ここは真冬でもこの状態ですか。

写真4 春林横穴墓群


 ヤマセミさんが「たしか、横穴が見られるはず・・・」と言いつつ、藪の中に突入し、崖を探ります。

 私もS源寺さんも山城歩きには慣れているので、普通に後から続きますが、こんな藪化していて、横穴が見つかるんだろうか?

 そう思いつつ、探していると、少し離れた場所でヤマセミさんが「見つけました!」と声を上げました。

 おー、凄い、見つかった!

写真5 横穴


 しかし、近づくのが一苦労だ。

写真6 横穴


 横穴の中に入ることはできませんが、床面の様子は分かりました。

写真7 横穴


 さすがヤマセミさん、これは知っている人に案内してもらわないと見つけられないかもしれません。

 しかも、真冬でもこの状態ですからそれ以外の時期に来ても玉砕しそうです。

 春林横穴墓群は、戦前から戦時中までは子供の遊び場になっており、戦時中は防空壕として利用され、戦後には横穴墓の中に住み続けた夫婦もいたそうで、あるとき骨が見つかって供養したという話も残っています。

 現在は説明板に書かれている通り、崩落の危険性があるので、慣れていない方は近寄らない方がいいでしょうし、慣れている方でも穴の中には入らない方がいいでしょう。

 しかし、こういう生の横穴墓は初めて見ることができたので感動しました。

 つづいて、川尻八幡宮へ向かいましょう。

 古墳があるらしいですよ。

春林横穴墓群の調査結果について
 
 『城山町史1 資料編 原始・古代・中世』に再掲されている「神奈川県津久井郡城山町久保沢横穴群」という昭和41年に調査した時の報告書によると、第一号横穴と名付けられた横穴は、玄室と羨道からなり、平面形が台形状の玄室の奥半分には、河原石が敷き置かれた棺座があります。

 玄室の幅は、奥が165㎝、手前が120㎝、奥行きは174㎝あり、そのうち奥の90㎝が棺座のスペースとなっています。玄室の高さは、奥壁部分で91㎝しかなく、普通の古墳の玄室のように人が立てるほどの高さはありません。玄室の天井はアーチ状になっています。副葬品の類は見つからず、粉末状になった人骨がありました。

 2号横穴の玄室に残っていた人骨は、南東に頭を向けて、両脚を少し広げた伸展葬の形でした(この向きで寝ていると入り口側に足がこない?)。玄室には副葬品は残っていませんでした、前庭部にて須恵器の長頸瓶や土師器坏、鉄製刀子が見つかっています。

 玄室の平面形を台形状にして天井をアーチ状に造るのは、『日野市史 資料集 考古資料編』を参照すると、日野市の坂西6号横穴や7号横穴と一緒です。さらに多摩市の中和田横穴墓群にもあるようです。

 2号横穴の玄室の断面はアーチ状で、4号横穴の玄室は横長だったりして、構造に関してはとくに決まった規格はなかったようですが、バラエティに富んでいるわけでもありません。

 以上、該書には5つの横穴について記されています。

 昭和52年には城山町教育委員会が調査しており、「春林地区横穴古墳の調査について」という報告書があり、こちらも『城山町史1』に再録されています。上述した横穴に住んでいた夫婦云々の話はこちらの報告に記されていたものです。また、現地説明板の横穴分布図もこの報告書に掲載されていた図面です。

 さらに、昭和61年には町教育委員会によって『城山町史』編纂のための学術調査が行われ、各穴の構造などが、これまた『城山町史1』にかなり詳しく掲載されています。

 昭和52・61年の両調査時にも人骨以外の遺物はまったく検出されず、春林横穴墓群の年代を決めるための資料は、昭和41年の調査の時に見つかった須恵器の長頸瓶と、土師器の坏、それに刀子しかありません。

 そのわずかな資料を基に考えると、7世紀中葉に横穴墓群の造営が始まり、8世紀まで造営が続いたと考えられています。

 なお、『城山町史1』には、多摩川と相模川流域の横穴一覧表が掲載されておりナイスですよ。

春林横穴墓群はどの地域の文化系統か?

 神奈川県は横穴墓が多い地域で、下図の通り、鶴見川流域と、鎌倉周辺、それに大磯町周辺に濃密に分布しています。

『城山町史5 通史編 原始・古代・中世』(城山町/編)より転載

 春林横穴墓群は、河川流域で見ると相模川流域となり、相模川流域の古墳(横穴墓)としては、県内最上流に位置します。

 そのため、一般的には相模川下流の文化の流れと見ることが多いのですが、一方で、この地域は多摩地域との関連が深いことも見逃せません。そしてさらに、相模川や鶴見川とは別水系の境川上流部に位置し、その水源地帯の近くであることもまた注意しなければならない点です。

 少し古い情報ですが、『城山町史5 通史編 原始・古代・中世』を編纂している時点(刊行は1995年)では、旧城山町内では、古墳時代の前期・中期にかけての集落跡は見つかっていません。ただし、前期には東海勢力進出の証である「S字甕」が見つかったり、中期の土師器もある程度見つかっているため、遺跡としては判明していませんが、前期・中期の集落はあったものと考えられます。それが、後期を経て終末期になると、大規模や春林横穴墓群の造営が始まり、周囲にも川尻八幡古墳もあり、横穴墓の数で見たら東京都側の多摩丘陵の横穴墓群にまったく引けを取りません。

 さらなる考察に関しては、川尻八幡古墳のページにて考えようと思います。


津久井城跡から高尾へ歩く 【2016年1月2日(土)】

津久井城跡 → 大正寺久保沢観音堂 → 春林横穴墓群 → 川尻八幡宮および八幡神社古墳 → 小松城跡 → 下馬梅 → 大戸学校跡 → 大戸観音堂 → 謎の城郭遺構 → 小仏層


3.参考資料

  • 現地説明板
  • 『日野市史 資料集 考古資料編』 日野市史編さん委員会/編 1984年
  • 『城山町史1 資料編 原始・古代・中世』 城山町/編 1992年
  • 『城山町史5 通史編 原始・古代・中世』 城山町/編 1995年 
  • 『神奈川の横穴墓』 神奈川県考古学会/編 2005年

投稿者: 案内人

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